【14.10.14】第九回「日本のおもてなしは競争優位になるか 〜シンガポール×ホスピタリティビジネス〜」 by 臼杵さおり(シンガポール在住)

第9回 ひとりのソムリエが東南アジア統括CEOになるまで(前編)


「接客が好き」誰もがそんな思いで、ホスピタリティ業界で働き始めます。しかし忙しい毎日の中で、その気持ちを忘れてしまったり、現実的な壁にぶつかり業界を去って行く人も沢山います。どうすれば、「この好きな世界でずっと生きていけるか」今回から2回に渡って、ソムリエから東南アジア統括社長になった三宅隆文氏のインタビューをお届けします。目の前の仕事に集中しながら、少し先を見据えて行動してきた三宅氏から、この世界で成長し続けるコツを聞いてみたいと思います。
               
 ●取材・文・撮影/臼杵さおり





Product ワインの世界へ


−−−関西ご出身ですよね。いつ頃東京に上京されたのですか?

 2002年にフォーシズーズンズ丸の内が開業するときです。それまでは18歳から4年間神戸のフランス料理店で働いていました。もう朝から晩まで丁稚奉公みたいな日々で、きつくて、きつくて。毎日退職届を胸ポケットに入れて通勤していました。いま思えば、飲食で働く基礎体力を鍛えられた4年間だったと思います。ここでワインに魅せられ、海外で勉強したくなりました。というか、とにかく神戸から出てみたかった。そうしたら、ある方が「フランスのメゾンを紹介してやるからワインの勉強をしてこい」って言ってくれて。それで気づいたら、シャルルドゴール空港のタラップを降りていました。
最初に行ったランスでは、ジプシーに混じってぶどうのピッキングからやらせてもらいました。次の半年、ブルゴーニュに南下して、レストランのスタジエ(研修生)をしていました。その後優秀なソムリエの方との出会いがあり、彼はその後2002年10月に開業したフォーシーズンズ丸の内東京にシェフソムリエして就職し、私も一緒に入社しました。24歳のときでした。
 当時ホテルで出会った人たちはすごかった。最低2カ国語できて、コーネルのMMH(ホテル経営学部大学院卒業)ホルダーやローザンヌ・ホテルスクール出身者もいて、衝撃を受けました。
 レストラン部門は特にオールスターでした。トップクラスの料飲ディレクターたちが采配を振るっていました。みな職人で、腕一本で生きている気概に溢れていて。このすごい人たちと同じ空間で働けることの価値を噛みしめながら過ごしました。

 そんなすごい場所でしたが、なんとか自分も戦えた実感がありました。神戸とフランスで過ごした5年間は意味があったと思えましたね。そして開業一年が過ぎたころ、米国から来ていたディレクターに「お前、将来どうなりたいのか?」と聞かれました。


People 人をマネジメントする


その質問に、私はこう即答したんです。

「あなたみたいになりたい」

 オシャレなスーツを来て、外国人エグゼクティブ達が住む青山のようなところに住んで、かっこよくなりたいと答えました(笑)。そしたら「簡単だよ。教えてあげる。つまり、お前は世界をまたにかけてやりたいんだろう?」と。
 当時、そのディレクターは36歳。僕は25歳。あと10年で彼のようなポジションにつきたいと思いました。
 彼は、まず「ワインの本を捨てろ」と言いました。そして、どっさり英語の本を私に渡しました。ぜんぶ英文法の本です。
「これから一切ワインの話をするな。とにかく英語で議論できる力がないとお前はずっとローカルスタッフのままだ」
 僕はこういうことときは、素直に従います。疑わず、ただひたすら彼の言う通り、英文法の勉強に没頭しました。

スペシャリストかジェネラリストか


 時を同じくして、朝から晩までワインに関係する世界にちょっと違和感を覚えていたのです。「ほかにも自分の居場所や、やるべきことがあるのではないか」と、ぼんやりと思った。ソムリエとしてやってきたけど、ジェネリラリストとはどんなものだろうか・・・。そんなことを考えだしたんですね。

 そんな思考の変化を経て、ProductからPeopleへ、つまり、人をマネジメントする方向へ興味が移っていったんです。人に深く入り込んでいって、組織論を学ぶ数年間が始まったと思いました。
 フォーシーズンズには3P、つまり商品(Products)、人(People)、お金(Profit)という考え方がありました。事業の3要素をどうマネジメントしていくか考えていました。

Product から入ってPeopleで終わるホテルマン


 通常、ホテルマンは「Product」から入って「People」で終わるんです。豊富な商品知識があって、10数人のチームをマネジメントして。そこで終わってしまうんです。だからホテルマンはビジネスの話ができない。日本人の弱いところでもあります。今、アジア各国飛び回っていますが、日本人が幼稚に見えるのは、ここが原因です。フォーシーズンズでそれを自覚していたので、すぐに次のProfitを目指そうと思いました。
 ホテルのお客さまのなかには、毎晩5万円の部屋に泊まって3万円のシャンパン開けている人がたくさんいますよね。そんなお客さまの一人で、資産運用会社を経営していた方と出会い、私はそこで働くことになったのです。


Profit お金の世界へ



−−−−資産運用会社ではどんな仕事をしていたのですか。

 ホテルの部屋を証券化して販売するという仕事に社長の秘書として携わりました。朝起きて経済3紙を読み込んでから朝7時に出社、深夜2時に退社という生活です。
 ロサンゼルスの物件を扱っていたので、時にはプライベートジェットでロスに飛んで、高級ホテルに泊っていましたが、ベッドで寝たことなんてなかったです。向こうに着いたら宿泊先のGMを質問攻めに。客室数、稼働、RevPAR、宴会場の状況などホテルの数字について話し、部屋ではアメリカの主要なホテルのあらゆる統計を頭に入れて会議の準備をして、気づいたら机で寝ていました。
 一年前まで一介のホテルマンだった僕が、ディベロッパーとミーティング。当時は雲の上の存在だったGMさえ、そのミーティングには参加できないんですよね。それが目の前で起きてて……。

———そのハードな日々のモチベーションはどこにあったのですか?

 実は、この仕事を始めた早いタイミングで、「自分には金融の世界は合ってないかも知れない」と感じていたんです。ただ、これは「どこかにつながるだろう」という根拠のない自信はあった。それだけで走っていました。そうこうしているうちに、サブプライムローンが起きるんです。あらゆる不動産事業がストップしました。バブルな生活はある日、突然終わりを告げました。(後編10月21日更新につづく)

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